梶野茂三郎明寛
梶野家は平九郎以降男子に恵まれなかった。良材(よしき)は久隅家から養子に迎えられたし、次の茂三郎も、良材に男子なく、文化14年7月、婿養子の支度願いを出し、9月に願いが叶い、明楽(あけら)八郎右衛門茂村の次男茂三郎が16歳で梶野家の養子となった。茂三郎の実父茂村について触れておこう。茂村の生年は宝暦10年、良材より13歳年長である。梶野家と同じ御庭の者の出で、2度の遠国御用を勤め、文化13年勘定吟味役上座に昇進し、天保2年には格別の訳をもって、諸大夫、飛騨守に任ぜられ、翌3年には、村垣定行に代わって勝手方勘定奉行に登用され、11年間勘定奉行を勤めた、その間天保8年には3百石加増され8百石となっている。
良材が婿養子支度を願い出たのが、文化14年で、良材は、44歳、御膳奉行(5百俵)、茂村は57歳、勘定吟味役(5百石)であったから、切り米と知行所持ちとの差はあっても、その時はほぼ同格であった。また、茂村は天保3年に勘定奉行、良材は11年に同じく勘定奉行になり、茂村の後役を仰せつかっていて「5両判吹き立て、小判1分金吹き直し」役目の上でも相知った間柄だったのだ。
御庭番出身者で勘定奉行まで出世した者は、村垣淡路守定行、明楽飛騨守茂村、梶野土佐守良材の3人であるから、茂村の血を引く茂三郎は、御庭番出身者の間でも、高く評価されていたことだろう。先祖書き、系図には茂三郎の生い立ちには殆ど触れられていない。
少し脇道に逸れるが、松平和也氏は、「近代経営参謀の系譜」に 、上記3人を取り上げ、以下のように書き記している。「第8代徳川吉宗は御庭番を設置したが、これは将軍直属の情報参謀が誕生したことを意味し、将軍の目と耳としての隠密御庭番が紀州藩士によって固められた。当初御庭番は17人で甲賀・伊賀の隠密上がりであったが、御庭番筋で幕府最重要役職に就いたのは勘定奉行が3人いる。村垣淡路守、明楽飛騨守、梶野土佐守である。特に幕末村垣淡路守範正が遣米使節団副使になって条約批准などに関わっている。御庭番の役割は各地大名、奉行所、代官所などの実情把握、老中など役人の行状、世間の風聞把握である。」 このような出自から茂三郎は、御庭番出身の中でも、高い期待を込められていた筈だ。事実、茂三郎の兄茂正は、3度にわたり遠国御用を勤め、天保8年本丸御膳奉行、翌9年、11代将軍家斉の正室近衛寔子(ただこ)の広敷用人(在職中に大隅守)、12年5月家斉が西丸に移り西丸広敷用人に、家斉が亡くなり、寔子が落飾して広大院となったことから、翌13年禁裏付き、嘉永2年京都町奉行となる、遠く離れた京にあって、広大院のお役を勤めていたのかも知れない。茂三郎の兄大隅守茂正も矢張り御庭番出世頭であった。このような名門の出であれば、茂三郎がこのまま健康であったなら、同じく大きな実績を残しただろう。先祖書き、系図にはこのことに殆ど触れられていないのはいかにも残念である。
茂三郎は、梶野家に入った翌文政元年9月、部屋住から召し出され、両御番格(御目見え以上)御天守台下御庭番を勤めるよう老中土井大炊頭から申し渡された。そして、先祖書きには、「御台様御用人支配に罷り成り」と記されていて、一見余りに早い昇進に驚くと共に、父良材が、右大将家慶の御簾中楽宮用人であったことからも、序列にもとるようにも見えるが、以後の機一郎、矩縄も同じ経歴を踏んでいるので、先祖書きの通りそのままに記載する。
茂三郎は、1年7ヶ月程勤め、文政3年(1820年)4月20日、数え20歳の若さで病死してしまう。この年は疫病(疱瘡)が大流行した、あるいはそれが死因かも知れない。この時、後に12代将軍となる右大将家慶の正室御簾中楽宮喬子の父、有栖川一品入道が逝去し、楽宮の用人である父良材は、香奠を預かって3月21日京都に出立していたから、茂三郎の死は、後に残った梶野家は大変な騒ぎを起こしたことだろう。
でも、茂三郎は、養子縁組を認められただけ、跡式相続願いもしていないし、当主は良材であり、事後措置は、茂三郎死去の6ヶ月後の11月末、良材の嫡孫承祖(嫡孫が祖父の家督を相続すること)の跡式願いが出され、翌12月始め、茂三郎の嫡子機一郎が3歳ではあったが、跡式相続を認められている、この時良材は47歳だった。文政3年、良材は御簾中、次いで右大将家慶(後の12代将軍)の用人になったことも力添えがあったかも知れない。墓所は四谷鮫河橋千日谷一行院、法名は当知院殿本誉誓願居士である。
ここで更に、明楽家、梶野家の養子縁組に触れておきたい。系図には、良材の子として、6人の名前が記されている。第1子は長男信太郎早世、第2子女子養子茂三郎妻、 第3子次男明楽為次郎改め八郎右衛門、第4子3男梶野恒三郎良直、第5子4男美濃部常治郎となっているのだ。また良材妻さき文化13年に亡くなっていて、良材は後妻を娶っている。つまり養子茂三郎を迎えた後で、良材は後妻によって3人の男子をもうけたことになる。そこで、養子がいたため3人の後を考え、次男を明楽家に、3男恒三郎は分家願いを出し認められ、4男を美濃部家に養子に出したのだ。次男明楽八郎右衛門は、明楽家の系図には養子との記載はない。このように明楽家と梶野家は養子縁組を繰り返している。後日解き明かさなければならない課題である。
更に御庭番筋との婚姻は、これに限らない、茂三郎の子機一郎矩道は、村垣左大夫範行の娘を妻としているのだ。村垣範行は先に述べた、遣米使節団副使村垣淡路守範正の 父であり、機一郎の妻は、範正と姉妹なのである。この遣米使節団は万延元年(1860年)77名からなる大使節団で、幕府が米大統領との謁見を求め国威を示すものでもあった。つまり梶野家の後裔は、明楽家と村垣家の血筋を受けているのだ。御庭番筋の家系は、将軍直属の忠節な情報機関としての役割を担い、情報漏洩の意味からも限られた婚姻関係を維持していたようだ。
梶野機一郎矩道
次いで、孫機一郎矩道に移る。機一郎は、祖父良材が奈良奉行であったとき、天保6年11月部屋住みから召し出だされ、亡父茂三郎に準じ、両御番格御天守台下御庭番を勤めるよう老中大久保加賀守から申し渡された。ここからは父茂三郎と同じく異例の出世をする。僅か1年後、天保7年(1836年)11月、11代将軍家斉の御台様用人支配になった。良材は京都町奉行として江戸にはなく、機一郎がまだ19歳であることから、これも異例の抜擢と言える。
この後、機一郎は老中からではなく、家斉の御側衆土岐豊前守朝旨(ともよし、旗本7千石)、並びに本郷丹後守康秀(同じく旗本7千石、将軍家斉の信任厚い御側衆)の指示を受けて勤めるようになる。特に、土岐豊前守は、将軍家斉の寵信厚く、老中以下皆な彼を憚かったと言うから、機一郎が特に、家斉にも目をかけられていたことを物語る。翌8年4月、将軍家斉が、家慶に将軍職を譲り、隠居し大御所になって西丸に移ると、機一郎も西丸へ移り、大御台となった茂姫近衛寔子(ただこ)の御用人支配を勤めた。
その直後、天保9年4月、日本橋小田原町から出火があり、風向きが悪く移ったばかりの西丸が炎上してしまう。家斉が西丸移るというので、西丸は大御所に相応しいように大改修をしたのだった。その際、機一郎は直ちに西丸に駆けつけ、御園締め場所に行き、御締め口から荷物持ち運びに力を尽くした。
その後、天保12年1月大御所家斉が死去し、大御台は広大院を名乗り、翌13年、従一位の官位を授かり、以後一位様と呼ばれるようになる。先祖書きには記載がないので、そのまま広大院の用人支配を続けていたと思う。それを裏付けるように、天保13年3月、御側衆本郷丹後守から、西丸奥で翌14年日光山参詣の御供をするよう命じられている。一年も先の日光社参を命じられていることから大変な計画であることが解る。参詣の時、祖父良材は、天保14年3月に休泊所その他建物の見分に江戸を立ち、月末に戻っているから、役目はそれぞれに違ったものであった。
しかし、天保14年9月、水野忠邦が失脚し、祖父良材も御役御免を伺い差し控えとなったことから、機一郎も同じように伺いを立てたところ、御目見え遠慮だけに留まった。その後、天保15年正月、御目見え遠慮が解かれ、同年6月には、同じく西丸奥で本丸御普請御用を仰せつかっている。このような取り計らいは、将軍家慶の意向が大きく働いていたことと思える。それは老中からの指示ではなく、御側衆本郷丹後守から伝えられていることからも明らかである。その思し召しを受けて、機一郎は言語に絶する働きをしたようだ。本丸が無事完成したとき、その労をねぎらう言葉の中に、「御普請中、日々付きっ切りで早出居残り等、骨折り相勤め」との記載があり、身に余る御褒美と御手当を頂いているのだった。
機一郎は、13代将軍家定の正室となる寿明宮(すめのみや)秀子(ひでこ)の下向に際し、嘉永2年(1849年、機一郎31歳)2月6日に御供を命じられ、支度・諸準備の後、7月1日江戸を立った。寿明君は公武合体派の公家である関白一条忠良の姫定子である。これらの指示も御側衆本郷丹後の守から出されている。
機一郎の寿明宮下向御供は、多くの資料が残され、彦根藩では有川市郎兵衛他4人に御用掛かりを命じ、有川家文書には「寿明君様御下向御用に付諸事留」が残され、一行は9月15日に京を発ち、10月3日に江戸に着いたことを記す中で、市郎兵衛たちは京都の伏見まで出張したり、金銭面でも苦労を強いらたことを残している。
一見華やかな姫君たちの行列も、それを迎える現地の側は大変で愛知川宿・高宮宿・鳥居本宿・番場宿・醒井宿は人足3千人、馬4百疋を調達したとも記されている。この姫宮下向には、中山道宿場に多くの文書が残され、絵図としては「楽宮下向絵巻」が岐阜博物館に残されているし、下向に際して近隣村落からかり出された「助郷」の記録も多い。喜一郎は、姫宮御下向御供を無事を果たしたことを20日に報告している。2月に御供を命じられてから、帰着報告が終わるまで8ヶ月も携わったことになる。
その他、姫宮御下向については、瑞穂市の資料もある。美濃には16宿がある。瑞浪市には、この美濃16宿の中の3つ目と4つ目に当たる大湫(おおくて)宿と細久手宿がある。細久手宿は、慶長15年(1610年)に新宿として設けら、江戸から数えて48番目の宿である。宿内の戸数60〜70戸のうち、旅篭屋は25〜35軒あり、助郷14ヶ村の人々が宿を助けて人馬役を負担した。姫君道中では、楽宮、寿姫などが降嫁の時ここに宿泊した。
江戸時代に、将軍家へ6人の姫君が京都から江戸への道中、中山道を通って降嫁しているが、うち2人までが与川道を用いています。享保16年(1731年)の伏見宮家王女比宮と、文化元年(1804年)の有栖川家王女楽宮である。
姫宮御下向の中でもっと大がかりなのは、和宮御下向で、京都方(京都近辺の諸藩から集められた)1万人、江戸よりの派遣1万6千人だったこと、その他に持参した品物を運搬する人足等を入れると3万人余りにもなり、延べ12に及ぶ各藩が輿を守った。行列の長さは約12里(50〜60Km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日もかかったと言われている。そして、街道筋では、「伝馬役以外は一切の外出禁止令が出され」「女は姿を見せないこと」「通行を上から(2階などから)見ないこと」「商家の看板は全て取り外すこと」「2階は雨戸を閉じること」「犬や猫はたまた赤子も泣かせてはならないこと」などなど、幾つもの「禁止令」が出され、それを可能にできるのは人口も少ない中山道だけであったと言う。
無事楽宮御供を果たし、10月に白銀5枚を頂いたものの、その後の記録が殆どない。しかし、天保14年10月、祖父良材が水野忠邦罷免に伴い、差し控えを伺ったところ、差し控えが言い渡されたのだから、機一郎にもその影響が及んだはずなのに何の記載もない。嘉永6年6月、祖父良材が亡くなると、良材の願い通り、9月に家督相続が許された。9月末に家族一統が御目見えを蒙り、御礼言上の上、太刀馬代を献上している。その後、元治元年(1864年)6月、病を得て隠居し、惣領鎚太郎に家督相続を願い出て田沼玄蕃守から書付により認められた。しかし、本丸普請と引き続き寿明君下向御供など気配りのいる役をこなしたためかその後病を得て、慶応2年9月48歳でなくなった。墓所は四谷鮫河橋千日谷一行院、法名は大乗院殿意誉名称覚行居士である。
梶野矩縄槌太郎
更に良材の曾孫、矩縄は、文久2年(1862年)12月、部屋住から呼び出され、小十人格となり、天守台下御庭番を仰せつかった。次いで、父機一郎が病気になったことから、家督相続を許され、和宮(14代将軍徳川家茂の正室親子ちかこ)並びに天璋院(13代将軍徳川家定の3人目の正室篤姫)の御用人支配になっている。次いで、文久3年11月15日江戸城本丸、二丸が炎上した。この時、矩縄は記録を残している。敬語もそのままに記載する。
矩縄はこの日宿直の日だった。その記録によると、午後6時、夜回りを済ませた後、小普請方が預かる物置になっていた部屋から出火(大奥御客殿御供溜との記載もある)、一時に炎上、御広敷に移り、長局諸部屋まで残らず炎上、中奥に向かって上下御控えの間迄火が移り、御座所に向かって火が延びた。次いで、御表、役所に向かい、御玄関、御櫓、三重御櫓、汐見御櫓、小普請方、食方、切手御門を消失して、二丸に火が移り、御殿に向かい役所全てを焼き払い翌16日午前2時に鎮火した。
公方様は新御構え(吹上との記載もある)に御立ち退き、天璋院様は潮見茶屋に御立ち退き、和宮様は□□御茶屋(2字不明)、本寿院様は御花壇に御立ち退きになった。16日午前4時過ぎ、和宮様、天正院様、本寿院様は、清水御館の御移りになった。17日公方様は新御構えから清水御殿に御移りになった。
しかし、この時以降風雲急を告げ、幕府体制も危機に瀕していた。先祖書きにはこの間の状況は一切触れられていない。そして6年後の慶応4年(1868年)になるのだ。1月3日には戊辰戦争が始まり、10日には慶喜追討令、更に、2月には慶喜は上野寛永寺に蟄居、4月11日に江戸城入場という事態になっていった。
そのような中で、慶應4年(1868年)4月6日、矩縄は、官軍が陣を敷いている中を通って家来に知行所まで行かせる。知行所は、駿河国渡部郡にあり、その3ヶ村(柚木村)が知行地だった。地元の農民達は既に幕府が覆ったことを知っているはずで、それを矩縄は「当今の形勢は、小前(小百姓)末々の者まで兎角人心穏やかならず、かれこれ動揺仕り候に付き、取り鎮めの為、家来を差し遣わさせた処、東海道藤沢駅において、参謀方から尋問があり、知行所に参り、取り鎮めると申したが、先鋒の総督からのお達しがあり、家来は引き返してきた」と述べている。
ここから急転直下、矩縄は「朝命遵奉」を標榜し、急ぎ知行所に取り締りの為出立したいこと、また幕府への御奉公御免願いを申し出たところ、8日、御奉公御免、小普請入りを命じられ、思う通り知行所に行って良いと若年寄平岡丹波守から告げられる。それを受け、11日、江戸裏六番町屋敷を出立、知行所に着いた。知行所での話し合いは纏まらず、それを解決するため京都に向かう。閏4月13日、京都に到着。
翌14日、太政官へ到着の旨届け出る。5月15日、巳の刻(午前10時)参朝する。太政官では、「知行所本領安堵はこれまでの通り」と告げられ、「今後分限相応に忠勤励むよう」とも言われ、御印章(和宮の用人として黒印を所持していたか?)を勘ヶ由小路権右中弁、五辻弾正大弼にお渡しした。16日、禁中並びに大宮御所においても、本領は安堵すると仰せられたので、御礼申し上げる。
同月晦日、上士と呼称するよう仰せられ、6月27日、御達しがあり、参朝したところ、この春に上京した際、知行所取締りに行く等、不行き届きな行動があった、その不届きがなければ奥羽越後に出張させるはずであったがそれを差し止め、軍費として、高千石に付き、金2百両を当月を期限として貢献するよう申し渡される。そのため江戸に戻るが良いと言われ、更に御用がある場合は、沙汰をするから上京するようにと辨官事大原左馬頭から御書面をもって言い渡される。京都での工面は3ヶ月近くに及んだのに全く徒労に終わったのだ。
ここで矩縄に書面で指示をした大原左馬頭重徳(しげとみ)について述べておこう、大原左馬頭は、幕末・維新の際、公武合体、反幕派の公家(くげ)で、安政5年、日米修好通商条約の勅許に反対したり、文久2年、徳川慶喜、松平慶永登用を内容とする勅書を幕府に命ずる勅使に任ぜられ、久光とともに江戸に赴き対幕府折衝を成功に導いた。しかし、薩長対立を避けるため勅書を改文した。同年12月国事御用掛に任命され、朝廷の中枢に登ったが、翌年、勅書改文の罪により辞官、落飾した。元治元年赦免。翌年12月、王政復古によって誕生した政権に参与として加わり、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定、上局議長、集議院長官を歴任した。廷臣出身の代表的な政治家である。
矩縄は、直ぐに江戸に戻り、慶応4年7月、会計官出納司へ大原左馬頭から指示された軍費金百両を収めている。同じ7月、再び知行所に出立する。知行所へ出向いた目的、成果についても記されていない。しかし、軍費を納めた直後であり、その調達を目的とした者ではないかと想像する。しかし、これは恐らく無理なことであったと思う。
次いで10月には、先般新政府への忠勤精励を申し渡されことから、陸軍局に向かい、兵学校入学を志願し、辨事御役所へ願い出て、東京の鎮将府へ出向き、去る6月京都に参上し、西京(京都)軍務官へ届け差出したことを話した結果、10月24日、軍務官兵学校の入学が認められた。
ここで、一連の用語を解説する。太政官(だじょうかん)とは、日本の明治維新政府に設けられた官庁名。1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。太政官とは、議政官以下7官の総称。翌1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことに伴い廃止された。
鎮将府とは、東征軍が、7月、江戸を東京と改称すると共に、「鎮台府」を「鎮将府」と改称した。陸軍局は、京都守護職屋敷跡に設置され、慶応4年閏4月に新政府により陸軍局となり、軍務官も併設された。その後、軍務官は東京に移った。
矩縄は、この兵学校入学が非常に嬉しかったのだろう。26日には、太刀一腰と鯛一箱を献上している。しかし、去る慶応4年8月、駿河国徳川(田安)亀之助が駿府藩主となったので、矩縄の知行である有渡郡の内3ヶ村は取り上げられ、替え地は、追って沙汰すると告げられる。そのため、知行所に関する書類等を駿府県令田上寛蔵へ引き渡す。ここに言う、亀之助は、第14代将軍家茂の死去に伴い、慶応4年閏4月、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許され、同年五月、駿府藩主となり、70万石を与えられた。明治4年7月、廃藩置県によって、東京へ移住、以後明治・大正にわたり多くの要職を勤めた。また、駿府県令田上寛蔵は、最後の駿府代官であったが、役高は僅かに2百俵で地位からすれば、矩縄よりずっと下位の職であった。慶応4年には駿府県令となっていた。今日、駿府代官跡は、割烹料理浮月楼となっている。
兵学校入校の後、矩道は27日、自ら願い出て、京都勤務となった。しかし、慶応4年12月、従来の住居に住まい、上士一同東京に常駐するよう指示が出る。入学中のことであるからどのように対処すべきかを伺ったところ、東京行きを命じられ、同月、京都を出立し、明治2年(1869年)東京裏六番町屋敷に到着した。同年10月、太政官御玄関番を命じられ、同年12月、上士の呼称は廃止され、東京府貫属士族となった。明治政府の施策は、明治3年2月に打ち出された。それは、「家令・家扶・家従等相当の人員」を除き、旧藩士たちは地方官の貫族とするというものだ。「貫族」とは、戸籍上その居住する地方の地方官に所属することである。同3年(1870年)10月、玄関番も廃止となった。これで先祖書きは終わっている。矩縄は全てを失ってしまった。