御広敷勤め

これまで、隠密御庭番としての役割を演じてきた平九郎は、天明末から寛政にはいる時、大奥勤めに転じることになる。この時、48歳の働き盛りである。これは御庭番を勤めた者の栄進の過程である。第11代将軍家斉の長女淑(ひで)姫の出産に際しては、家斉の初めての子とあって、江戸城では大変な気の使いようであった。生母は正室ではなく側室お万であった。

天明9年2月、懐妊の兆しが出ると、平九郎は先祖書に、「御広敷番之頭仰せ付ける旨、右筆部屋椽頬(縁側)において、(老中格)牧野備後守(貞永)殿仰せ渡らせ候」と記し、更に「(明けて)寛政元年(1789年)3月、(御側御用取次)小笠原若狭守(信喜)殿、御蟇目(ひきめ:魔除けの鏑矢を射る儀式)勤められ候節、(平九郎)介添え相勤めるべき旨、鳥居丹波守(忠意)殿仰せ渡され候段、大屋遠江守殿申し渡し」と記され出産準備が緊張の内に進められていたことを伺わせる。淑姫は後に尾張徳川斎朝(なりとも:尾張第10代藩主、第11代将軍家斉の弟)に嫁ぐことになる。先祖書は「淑姫君様御誕生後、右御用相務め候につき奥新部屋において銀5枚下し置かれ候とある。

ここで、広敷について説明しておこう。広敷とは大奥勤務の男子役人が詰めていた場所を言う。広敷役人には、広敷(御台様)用人を頭とする事務処理系と、広敷番之頭を頭とする警備・監察系の2系統があった。平九郎が就任した広敷番之頭は、警備・監察系の最高責任者である。役料は2百俵で、留守居の支配を受けて、大奥へ出入りする人や物の検査を統括する。その下には、広敷添番、広敷添番並、広敷伊賀者、西丸山里伊賀者、広敷進上番、広敷下男頭、広敷下男組頭、広敷小人、広敷下男、広敷下男並・小仕事之者、広敷小遣之者等がいた。

更に寛政2年6月には、次の側室御懐妊があり、「松平伊豆守(信明)殿仰せ渡され候旨、太田駿河守申し渡し」とあったのだが、「松平伊豆守仰せ渡され」に抹消の朱が入れられていて、「小笠原若狭守(忠苗)御蟇目勤められ候節、(平九郎)介添えを相勤べき旨、伊豆守仰せ渡らせられ候段、太田駿河守申し渡し」となっている、この指示が直接伊豆守でないとし、指示の手順を糺している。御誕生は(次女)瓊岸(えいがん)院であった。しかし、瓊岸院は、生まれて一年も経ずになくなっている、名前も付けられていない。その誕生に纏わり先祖書には、「瓊岸(えいがん)院様御誕生の節、小笠原左京太夫御蟇目相勤め候節、介添え相勤め候につき、銀5枚下し置かれ候」と記されていたのだが、「小笠原左京太夫御蟇目相勤め候節」も朱書き抹消がある、これも真意が明らかでない。

また、寛政2年9月、平九郎は、「長局御修復懸を仰せ付け候段、松平越中守殿仰せ渡らせ候旨、大屋遠江守申し渡し、御用相済み金1枚、銀7枚下し置かれ候」とある。金1枚とは、大判1枚のことで、贈答用に使われ、小判に換算して7両2分と言われている。銀1枚は、銀43匁のことで、時代によって違うがこの時代銀60匁が1両とすれば算出できる。

同じく寛政2年12月、「御広敷取締之儀骨折り相務め候につき銀15枚下し置かれ候」とあり、寛政3年2月には、彰君(公卿左大臣、二条治孝の娘隆子で、将軍家斉の弟、一橋徳川治国の正室)が京から江戸に下向されるについて、御迎え御用を仰せつかっている。この役目が如何に大切であったかは、単なる御迎えだけではなく、下向されるについての諸取り決めの役も仰せつかっていたように思う。先祖書では、「彰君様御迎え御用仰せ付ける旨、右筆部屋椽頬において松平越中守仰せ渡さる」とあり、9月12日、「御暇(いとま)に付き金2枚時服2下し置かれる」とあり、12月1日には、御下向御迎えの役目を終え、帰府したことから御納戸構において、御目見を蒙っている。また、28日には、「骨折り相勤め候に付き銀5枚下し置かれ候」とある。

  そのような慌ただしい時に、跡取りのいなかったことから、寛政3年(1791年)4月に、平九郎は、久隅家から良材を婿養子に迎えることとなる。そして、6年後の寛政9年には、良材24歳で部屋住から召し出され、小十人格天守台下御庭番となり、初出仕するのである。

その後も平九郎は順調な栄達の道を歩み続ける。寛政4年4月には御細工頭を仰せつかる。先祖書には「御足高、役料並みの通り下し置かれる旨、右筆部屋椽頬において、松平伊豆守仰せ渡され候」とあるが、深井氏の資料によれば御細工頭は、2百俵高、御役料は百俵とある。ここで俸禄のことに触れておきたい。先祖書でも、禄高のことが屡々出てくる。しかし、系統だって仔細に記述されていないので、ある部分を見ただけでは正しい禄高は見誤ってしまう。例えば、天明8年9月。御広敷番之頭になった時、「本高50俵3人扶持に御加増成し下され、勤め候内に百俵高に御足高下し置かれ、御役料並みの通り下し置かれる旨」とあるのだが、深井雅海氏の著書によれば、広敷番之頭は「持高勤め、役料2百俵」とあり、別な箇所では「持高、御役料百俵」となっていて、その数値に齟齬がある。更に文化4年11月、平九郎は勘定吟味役になるのだが、深井氏の著書によれば、5百石高、役料3百俵と記されている、しかし、先祖書には「御足高、御役料並みの通り」としか書かれていないし、またそれに相当す知行取りではないし、領地を拝領した記録もない。

寛政5年5月14日には第12代将軍家慶(幼名敏次郎)が生まれるのだが、それを遡る正月12日には「御誕生御用取扱相勤べき旨時斗之間において堀田摂津守仰せ渡さる」とあり、誕生後の10月13日には、御宮参御用取扱相勤べき旨、堀田摂津守殿仰せ渡さる右御用相済み銀5枚下し置おかる」とある。家慶の生母は側室お楽の方だった。

次いで正室寔子(たかこ:島津重豪の娘で、近衛の養女となる)が出産するとあって、この度は江戸城あげての大事であった。寛政7年11月に、先祖書では、「御台様御懐妊に付き御産御用士勤めるべき旨、右筆部屋椽頬において安藤対馬守仰せ渡さる」とある。生まれたのは男の子で、引き続き「敦之助様御誕生後御用相済み銀10枚下し置かれる」とある。

次いで、寛政9年7月、大納言(徳川斉朝、家斉の弟治国の長男、後、尾張藩第10代藩主)が西丸に移住されるにつき、道具類の移送の役を命じられ、終わって「御道具類骨折り相勤め候につき、銀5枚下し置かれる」とあり、更に「同9年12月、大納言様相勤め候につき、西丸において金1枚下し置かれる候」とある。

その後も忙しく、寛政10年5月には、「田安徳川家の家督を継いだ右衛門督徳川斉匡の御物頭となる。先祖書では、「右衛門督様御物頭仰せ付けられ、勤める内に3百俵高に成し下され候段、御右筆部屋椽頬において安藤対馬守殿仰せ渡される」とあり、更に、「田安より2百俵下し置かれ、小普請支配兼ね相勤め候様、表溜において佐野豊前守仰せ渡され候」とある。これが機縁となって、「寛政10年6月28日、田安殿附け用人見習相勤べき相勤べき旨田安において仰せ付けらる」となった。

また、同年8月17日田安殿附け用人相勤べき旨田安において仰せ付けられ、高4百俵に成し下さる、田安よりの2百俵そのままに下され、同月19日元高百俵御加増成し下さる旨、御右筆椽頬において安藤対馬守仰せ渡される。」と記され、僅かの間に大変な加増となった。ここで興味を持つのは、田安家用人になりながらも、就任・加増を伝えるのは幕府の老中であることだ。その上、年末になって「12月16日、布衣仰せ付ける段、老中太田備中守仰せ渡される旨、田安家老松平伊勢守申し渡される。」となっている。 布衣とは、江戸幕府の制定した服制の一つで、幕府の典礼・儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種であり、特に無紋の着衣である。その着衣を許された者を指す。

その後、長らく田安家に勤め、9年後、文化4年(1807年、62歳)11月には勘定吟味役に累進している。先祖書には、「11月晦日、御勘定吟味役仰せ付けられ、御足高御役料並みの通り、仰せ下さる旨、御座之間御次において御老中御列座松平伊豆守仰せ渡され、御座之間に召し出され、御目見え仰せ付けらる」と記されている。勘定吟味役は、老中支配のもと、勘定奉行の補佐役兼監視役と言った、極めて重要な役職である。勘定吟味役については、新たに章を起こし次章に記載する。そのため、勘定吟味役を勤めながらも、その間にも大奥の御役目を仰せつかっていることを述べる。

文化5年11月、楽宮(さざのみや)の御入輿御用を仰つかった。楽宮は、有栖川宮織仁親王の第6皇女、喬子(たかこ)女王である。幕府の希望により数え10歳で江戸へ下向、以後婚儀までの5年を江戸城西丸で過ごし、文化6年、正式に12代将軍家慶と婚姻する。先祖書では、「御入輿御用掛り仰せ付けられる旨、芙蓉之間において、後老中御列座牧野備前守(忠精)殿仰せ渡される」とあり、更に「文化6年12月、御入輿御用相勤め候につき、時服2下し置かれる旨、芙蓉之間において後老中御列座青山下野守(忠裕)殿仰せ渡される」とある。楽宮が中山道を下向された時の姫道中絵図は、岐阜博物館に収蔵されている。

文化9年(1812年)12月5日には、紅葉山御宮(紅葉山は江戸城内中央にある小山で、歴代将軍の霊廟)並びに大献院様(3代将軍家光)、常憲院様(5代将軍綱吉)、有徳院様(8代将軍吉宗)、峻明院様(10代将軍家治)の御霊屋御修復御用を芙蓉之間において、後老中御列座松平伊豆守(信明)から仰せ付つかっている。そして、先祖書では、「文化10年12月、紅葉山御宮、御霊屋向御修復御用骨折り相勤め候につき、金7枚、時服2下し置かれる旨、芙蓉之間において御老中御列座土井大炊頭(利和)殿仰せ渡される」とある。この時元高2百俵、足高6百俵である。

文化12年(1815年)には70歳となりさすがに高齢となったことから、8月12日、二丸御留守居となった。二丸御留守居は、若年寄りに属し、長年忠勤を励んだ旗本としての名誉職である。文化12年12月、養子良材は御膳奉行になった、平九郎は良材が出世したを見届けることができたのだ。勘定吟味役、二丸留守居と最後を飾るれた平九郎は、幸せな最後を送ったのだった。そして、10ヶ月後、文化13年(1816年)6月25日に病死した、71歳である。法名は、崇修院殿興誉仁応譲道大居士で、千日谷一行院に葬られている。なおこの梶野平九郎については、「江戸城御庭番」深井雅海著、中公新書、また「江戸城を読む」深井雅海著、原書房から多くの記載内容を引用した。ここに謝意を表する次第である。