生を受けた証として私が語り継ぎたいことを書き記す
私の残した足跡は、ドーム球場の実現に向けての努力だった。当時認可が得られなかったエアドームに道を開き、東京ドームを実現させ、更に、福岡ドームの著作権導入を果たした。
もう一つは、先祖に纏わる業績を纏めたことである。江戸末期、母方祖父家系は、麹町名主として、祖母家系は直参旗本として、疾風怒濤の時代、それぞれに大きな役割を果たした。
幼少時、最も大きな衝撃は母の死だった。大きな痛手として残り、私の人生に刻印を残した。
昭和16年12月大戦が始まった。翌年府立六中に入学、首都が焦土となる中、高知の叔父宅に単身疎開した。
大戦が終わり、翌21年六中に復学図ったが、拒否され、高知で学生生活を送る。
高知でのんびり暮らした者にとって東京の志望校は歯が立たず、一年浪人、白線浪人救済でやっと大学へ
昭和29年不景気の最中だった。坪井教授は私の個性を見通し竹中工務店を第一に挙げてくれた。
竹中は建設業で特異な存在である。建築請負を業としながらも、設計施工を企業理念に掲げていた。
創業者竹中籐右衛門に次いで、竹中錬一が社長になり、設計施工一貫体制を貫くため、巨大化した企業組織にその理念を浸透させる努力を続ける、それは至難のことだった。
東京ドームが竣工を迎える頃、父の介護が次第に大きくのし掛かってきた。自宅と父の家は20kmの距離、95歳頃から、大変な状況になってきた。第2の人生は壮絶な介護の日々だった。
傘寿からの後は、生活の質を維持することに注意を払う。それは孔子の言う「矩(のり)を超えず」が至言であることを知った。
米寿を超えた高齢者は、更なる高い目標を立て新たに挑戦することより、安定した健康の維持ができるよう努力するといった手法が相応しい。
米寿から卒寿までは、人間として断ち切れなかった願望の集大成を目指すときになる。年限としては2年という短い年月に過ぎないが、それだからこそ今までの総決算としてこれまでまとめてきたことを整理し残す準備に充てたいものだ。
卒寿から白寿までは、人間として断ち切れなかった願望、時に襲う強欲も綺麗に捨て去り、従容として天から与えられた命を大切にしつつ、その日その日を感謝しつつ過ごしたいと思う。その穏やかな暮らしの中に悟りが現れてくるように思う。