そして、私は家に戻っても受験勉強だけしか頭になかったから、家の手伝いなどはした記憶がない。そして、受験した一流大学全て不合格だった。やはり高知ののんびりした気風では学力が伴わなかったのだ。更にまずいことには、旧制大学はこの年が最後の受験となり、この先は新制大学を受験しなければならない。しかし、新制大学は受験する気がなかった。その理由は、旧制高校2年在学中に旧制高校が新制大学となったからである。新制大学の入学資格は、新制高校卒業者、それと旧制高校2年を終了したもので、旧制高校2年生は無試験で、新制大学1年に編入できた。言い換えれば、落第すれば大学生になれたのだ。そんな具合で、落第して入れる新制大学は眼中にはなかった。
旧制高校2年終了で、新制大学1年になれるなら、旧制高校3年を終了したなら新制大学2年に編入できるはずなのだが、それは許されなかった。つまり、最後の旧制大学受験に失敗した者は行く先が無くなってしまったのだ。受験失敗者にとって大変な事態だった。
このような事態に際して、世論は旧制高校浪人を何らか方法を講じて救済すべしとの気運が盛り上がった。第1高等学校校長を経て、文部大臣となった天野貞祐は、白線浪人を救済する非常措置を執った。もう1回機会を与えるというのだ。それは志望大学毎に試験を行うのではなく、志望学部学科だけで1括りし、受験させ成績順に学校に割り振るのだ。これを逃したらもう機会はない。死にもの狂いで勉強した。
駿河台予備校にも通い、講師達の充実した受験学習講義に驚いた。受験一本に絞ればこれ程までの講義を作り出すことができるのだ。受験のこつを教え、受験問題を解くことにのみ集中した講師陣の熱心さにも感動を覚えた。以前にもこのような授業を受けていたら2回もの受験失敗を経験しないでも済んだことだろう。講師陣の熱意に支えられ、私も猛烈に学習した。
その結果、昭和26年3月、東京大学工学部建築学科にはいることができた。しかし、本郷ではない、戦争中に技術者増強の使命を受けて設立された東京大学第2工学部だった。しかし、この時、既に第2工学部は消滅していたから、この名前をつけることはできず、工学部分校という名称になった。これは不名誉な名称で、一生つきまとうことになる。従って公式的には分校だが、私達はこの名称を嫌い東京大学工学部卒として、一般には使うことにしている。分校卒と言えば一々その意味を説明しなければならないし、やっかいだからでもある。旧制ではないが修学年限は3年で、その点からは旧制扱いなのだが、旧制大学は既に消滅しているし、正式に問われれば新制として扱われる。
この校舎は千葉市黒砂海岸にある惨めな木造2階校舎だ。戦争中の急造校舎だから、粗末なものだ。京成電車黒砂駅(現緑台)を挟んで、北側に校舎が、南側には学生寮があった。私はこの寮に3年間暮らすことになる。校舎も酷かったが、寮も朽ち果てたような有様で、1室は6畳、2人部屋だった。私の寮友は河西君で2歳年上、第一高等学校卒、長野県諏訪市の出身だった。河西君は、理科系には似合わず、父君が国文学の教師でもあり、人となりも文科系だった。
建築学科は、教授陣も本郷とは違う独立した構成だった。学科主任は建築構造の坪井教授で、私にとって勤務先竹中工務店最後の仕事となった屋根付き球場の実現に際しては大変のお世話になった。その他に優れた建築史の関野教授もいたが、やや格落ちの講師陣もいた。学生にとって、最も不利な状況に置かれたのは、地理的状況だった。教授陣の多くは地元にいたが、本郷と兼任だった建築材料の浜田教授、第2工学部廃止と共に、既に東京に居を移した教授もあり、交通状況、気象条件などによる休講が多かった。勢い学生の方でもそれを見取って、欠席したりするのだから、密度の高い授業は行われなかった。私は、大学の講義は、格式が高く、内容も濃いものと予想していたのに、講義を聴く内に幻滅を感じることさえあった。
それでも、これから先の就職のこともあり、推薦状がものを言うため、成績も決して疎かにすることはできなかった。ただ、この時期、学生の懐は寂しく、奨学資金の支給を受け、更にアルバイトをしなければ生活ができなかった。幸い坪井教授は、当時多くの仕事を依頼され、学生にその仕事の一端を紹介してくれた。その仕事内容は、日本各地に展開されていた進駐軍兵舎、飛行場設備などの仕事が、次々に舞い込んでいたのだ。進駐軍から、設計事務所に仕事が発注されると、設計事務所を経て坪井教授に構造設計の依頼がある。それを助手、研究員、学生が手分けして計算したり、図面を書いたりするのだ。これはアルバイトでもあったが、実技をこなすには打って付けの仕事だった。休暇前に教官室を訪れると、構造図面の制作、簡単な構造計算を紹介して貰い、大きな収入源になった。
前にも述べたが、私は高度な抽象理論の数学が不得手だった。実学的な構造計算はできても、高度な数学を駆使する曲面構造は理解することができなかった。それでも、何とか成績は上位につけることができ、就職戦線でも希望する会社に就職できた。
話は前後するが、在学中もう一つのアルバイトは、家庭教師だった。同室の河西君が紹介してくれた千葉市の産婦人科病院を経営する小林院長の子息で、中学2年であった、毎週3回、午後6時から2時間ぐらいであったろうか。その後の経過は省略するが、小林院長は暫くすると、そこに下宿していた姪の小林照子を引き合わせ、将来を託したのだった。つまり私の家内である。