トンネルも10ヶ所以上もあったのだろう、トンネルの前で皆で窓を閉めるのだが、西佐川に着く頃は、真っ黒になって通学したものだ。そんな状況でも汽車通学は、悪い印象を持っていない。当時の国鉄は、テンダー式の機関車C11などを使い、客車も腰掛けの背は板張りで酷いものであったが、国鉄職員が唯一の交通手段として、重要な任務に従事していると言う自負があり、正確な運行を守り通そうとする姿勢は素晴らしいものだった。車輌も5〜6両もあり、通勤・通学客も多く座席に座った経験は無い。
高知には、城東中学を筆頭に他にも県立南海中学校などもあった。城東中学は、昔高知一中と言われた中学で生徒は誇り高かった。しかし、六中と較べれば格段の差があったことは確かだった。通学時間が往復2時間以上あり、汽車の待ち時間などもあったりして、その間も教科書などを読んでいたのだろう。また同じ通学友達も勉強好きだったこともあり、脇道にそれることはなかった。
終戦の8月から、数ヶ月経ち、受験を考えるときになった。成績が良かったことから、東京の第一高等学校(旧制)を受けようとしたのだ。もう少し堅実な受験指導があればこんな無謀はしなかっただろう、関東近辺には官立の高等学校が東京高等学校、浦和高等学校などもあったのだから。自分でもかなり勉強をしたとは思っているが、一高と言えば、日本全都道府県からえり抜きの秀才が受けるのだ。あえなく不合格となる。
そこで、東京に帰り、六中に復学しようとした。ところが今度は復学拒否、戦後直ぐならともかく、7ヶ月も経っているから、復学は認められないという。これも、しっかりしたルートがあれば良かったのだろうが、諦めざるを得なかった。
当時の中学は5年制だが、中学4年で高等学校、高等専門学校が受けられ、その年に半数近くが上級学校に行ったのだ。従って、受験に失敗した者は、城東中学5年になり、受験浪人ではない。しかし、優秀な者は高等学校に進んでいたから、やはり落ちこぼれ学級であることに違いはない。5年では受験組は別のクラス編成をし、受験勉強に特化した。そのようなことから、毎日勉強ばかりで、思い出は更々ない。
昭和22年春、再び受験シーズンになったが、今度は慎重にし、高知高等学校を受験することにした。当時旧制高等学校は日本に32校あり、第一高等学校から、第八高等学校をナンバースクールと言い、それ以下は各県の名前を付ける官立高校と私立の高校があった。高知高等学校は、おおらかな学校で、優秀校のラベルはでない、それでも全国で32校しかないのだから、高校生と言えば、誰しも一目置いてくれた。甘えの気分があり、それを許す社会的気風があったのだ。
この時の受験競争率は26倍だったから、程度が低いとはいいながら、かなり熾烈な競争であったに違いない。この受験はすんなり通った。高等学校は、原則的に全寮制なのだが、食糧難のこともあり、自宅通学が許されていた。それに寮生活は、私には全くなじめず、入寮祭で、黄金水を強制的に飲まされるという所謂バンカラが横溢していたから、そのような寮に入ることは初めから念頭になかった。このような行動は時には市民生活に影響をし、市電の線路上で肩を組んでストームをし、市電を立ち往生させるとか、警察署の表札を盗んでくるとかと、衝動的行動にも進んで加わらなくてはならなかっt。そこまで行かなくても、桂浜でのストームは何かと言って日常的に行われていたこのような行動に自ら進んで参加できなければ惨めな存在になってしまう。通学という選択は自ら選んだのだが、これも高校生活では異端的であり、旧制高校卒といいながらこの先、生涯旧制高校卒としての華やかな過去を語る資格はなかった。
入学して、西佐川駅前の叔父の家から通学することになった。通学する時間は毎日同じだから、同級生は同じ汽車に乗って通学する。こんなことから、なじみの級友が自ずからできた。当初は分からなかったが、付き合う内に級友は、皆素晴らしい家系であることが分かる。私は西佐川駅だが、佐川駅から通う森下時男君は、大地主、父君は森下雨村と言い、早稲田大学出身で早くから推理作家として登場し、東京に在住していた。戦火が酷くる前、早い時期に高知に疎開してきていたのだ。また須崎から通う井本君は商家であったが、その家には書棚にそれなりの図書を備えていたし、同じ西佐川から通う西川君は佐川高等女学校校長の子息、更に石川君は牧師の子息だった。
皆それなりの家系であり、両親も知識階級に属する人達だった。でもそれらの級友も分け隔てなく付き合ってくれたように思う。1年を過ぎるころ、森下君が高知に下宿するといい、私もそれに従って下宿した。私が下宿した家は、家主が中学教師であったが退職後、1人息子が、関西の大学入学し、空き部屋になったので部屋を使わせてくれたのだった。従って、高知高校の先輩でもある学生は、夏冬の休みには帰って。私はその間、東京に帰っているので、個室をシェアできたのだ。そんな関係で、私は先輩には会ったことが無かった。
高知高校は、終戦直前に戦火に焼かれ、本館は全て焼失、焼け残った付属建物、集会場、その他バラックの建物で授業が行われた。私達の教室は、集会場として使われていた建物で、畳敷の広間に長椅子ベンチのような机を並べ、授業が行われた。このような環境下でも教師は真剣かつ熱心に指導してくれた。しかし、余りにも惨めな教室だった。翌年父兄・先輩に募金活動を展開し、私の休暇中は先輩を廻り、募金活動を行った。記憶に残るのは、大蔵省東条財務局長を訪ねたときだった。学校から配布された募金要旨を説明すると、ぽんと大金を目の前に出してくれた。これ1件で私の宛がわれたノルマが達成できたのだ。2年の後期には新校舎で授業をしたように思う。思い出に残る授業は、人文学系では、中学で教わらなかった高度な人間形成の基本を教えて貰った。
ドイツ語の時間では、教師がクラシック音楽に多くの時間を割いてくれたし、英語の時間では英文学と共に多感な若者に文学の素晴らしさを、漢文の時間では流暢な語りで漢詩朗読の素晴らしさに聞き惚れた。
高知高校は、文系と理系に分かれ、更に甲と乙に区分されていた。甲は英語を、乙はドイツ語を第2外国語としていた。理系、理甲は、電気、機械、精密などと言った数学、電気、物理を重視するクラスと、理乙は、医学、農学などを専攻とするクラスに分かれていて、建築、土木なども理乙が多かった。私は、理乙のクラスに入った。従って同級生は医学部、農学部を出たものが多い。私は、甲乙の選択も、消去法的で、不得手な数学、物理を避けたときに、理乙になってしまったが医学部、農学部に行く気はなかった。
理乙の授業でも、物理、数学はあるから、不得手な抽象的数式の授業について行けなかった。それに対し、植物、動物、化学などの自然科学は興味を誘った。有機化学の教師は、授業冒頭から、もの凄い早さで原語そのままに物質名を書き連ね、ノートに書き写すのが精一杯だった。
体育は、何時もラグビーばかり、胸の厚さのない私にとって、タックルなどされれば、とても起き上がれず、何時も楽なポジションに避難していた。高校生活と言えば誰しも運動部のことを1番懐かしく思い、卒業しても何をしていたかは運動部のことだった。他の高校との交流試合、インターハイと呼ばれる横断的競技大会など、この話に乗れない者は高校生であったとは言えないようだ。
高等学校に入るのに苦労したのだから、次に控える大学入学に対しもっと勉強すべきだったのに、高知という刺激のないのゆったりした地域性の故か、学友も真剣に勉強する者は少なかった。私も、おおらかなことを良いことにして、ぐうたらしていたのだ。ずっと後になって、つくづくもっと真剣に学業に励んでおけば良かったと思う。それにも増して、後悔が残るのは、自分の進むべき道筋を立てなかったことだ、文科系は文章の記憶力がないために、断念していたが、理科系にしても緻密な頭は持っていないし、抽象的学問が苦手で、目に見えるものに対する関心の方が強かったのだ。はっきりしないまま、高校生活も終わり、東京に帰ることになった。