「笠置紀行」その3……笠置南から笠置山、次いで木津へ舟下り

そのため、ここはこの辺りの大津である。それであれこれ問屋などと言う市倉が建ち、商人もいると聞いている。この川の前に村長達が出迎えて町並みを造っている坂道を少し登って、左の家に乗り物を寄せると、奈良から迎えの者が早くからここで待ちかねていて、昼食などを持てなしてくれた。大凡、この所は、北から東に回り込む山は大変な高さで、西は今来た方角だが、思いの外に山々が重なり合って、川下は余り見えない。

さて、かの東の岩山の勢いは、山裾がなだれてはいるのではなく、伊賀路を越える峠の近くから南上がりに進んでいくと、川に臨むところでは、渚より峰の方が遠くまで差し出されているように見える。南岸も険しくそばだっているが、北岸のように川の上まで覆うようにはなっていない。しかし、頂上の高さを較べると、北は南の半分にも及ばない。今、自分がいるところも、川を遙かに見下ろしてここが広いとも思えない。なお、差し向かえば、大空掛にけて仰ぐばかりの高嶺である。

このように辺りを見回してから、昔の笠置の城は何処だと聞くと、この川向かいの山の上がそこなのですと答えてくれた。思っていた通りだと言い、登る道は何処だと聞くと、向こう岸にある南笠置村を通って、この山の南西の麓に行くと正面の道だと言う。北の方から登るのは、道と言うものはなく、この辺りの山に暮らすものは、近道と言って木の根や岩角に取り付いて登るのに馴れているが、この住民ですら、普通の人では容易く登ることは難しい。

その名を赤井の背と言い、尾根伝いに登ることになる。また、陶山(義高)が忍び入った道というのは山の東北の尾根になるが、殊更険しい上に、何時もは用のないところなので、山で暮らす者さえも通ることはないと言う。赤井は閼伽井(あかい)のことで、仏に手向ける閼伽の井などがあることから名付けられたのだろう。栂の尾山の閼伽井の坊も、思い合わされる。

五社百首に


   五月雨は水上増(まさる)泉川笠置の山も雲かくれつつ

と詠まれたのは、見渡すことができないと言うことで、この辺りは山々のおおよそを言っているので、この山一つを指しているのではないことを言っているのだ。この山全て岩山だが、松も他の木も茂りあって赤井の背などは、ここから見て真正面に当たるので、紅葉の季節にでもなれば素晴らしい景色になると思う。

木がないところには、かなりの大石が突き出る様は、黒く錆びついているように見えるある。神世(神代の誤記)の時から雨露に濡れては乾き、乾いては潤ってきたのだろう。年月の限りないことを改めて知らされた。天皇が御座となされた本堂の跡は、頂上の平らなところで松の木が2〜30本同じ高さに立ち並んでいる。その西に差し出たようなところがあるのを貝吹岩と言うが、籠城のつれづれに麓の寄せ手を驚かせようと貝を吹いた跡なのだろう。

その時の合戦の様子、駆け引きを考えると貝など吹いたようにも思えない。今昔物語に、昔、長の皇子(大友皇子)が狩りにお出ましになった日に、獣を追いかけようと山路伝いに駒を早められたが、その駒があまりに走り進んで、この山の谷に臨む巌の上に飛びかかり、大変危ないことになったとき、仏に念じて我が命助かったなら、寺を造ろうと申されたところ、駒が後ずさりして危うく助かったと言う。そこに笠を標としてその岩の上に置いて、後にこの笠置寺を建てたのだ書いたのは、笠置の文字から作り出された物語で、置くという言葉の意味を知らない後世の人の稚拙さの笑いの種に過ぎない。

 雨降れば笠を取り、晴れては差し置くのが当たり前のことだ。山科に笠取山があってそこから、宇治和束を経て、ここに来れば、笠置山のあるところも遠くなく、名もまた雌雄のように両立するのは、容易に理解できることであるのに、頑なな作り事をして、昔のことを隠してしまう仏商人(今昔物語の作者を指す)の行いこそ返す返すもやりきれないことだ。名跡志には、これを濫觴記と言うとして天武天皇がまだ若くおわした時(上記の大友皇子は、明治3年、即位を認められて弘文天皇となる、この記述は齟齬がある)のこととして、取り集めた噂話で、益々やりきれない話だ。

舟運を司る旅籠を出て川辺に下ると、舟が3、4艘、渚に連なり、うやうやしく船飾りをしていた。川原は広いが流れは南に片寄って、狭くなっているので、乗った船が動くかと思った後すぐに、南岸に着いてしまった。船明かり(灯台)の所に貧しい者の小さな家があり、それと同じほどの高さの大石があり、阿弥陀岩と言う。赤井の山の背への登り口を見ながら西に進む。

川沿いでも道も狭くなく、南笠置の里は、北笠置よりも勢いがあって、大きな家も小さな家も多くは瓦葺きで、高殿造りのものもあった。蔵なども家毎に建て並べてある。中でも川原に面した酒屋と聞いた家は、石垣を高く積んで、築地を巡らし家や蔵の棟数が多く立派な構えをしていた。 北岸の町並みより大変よく見えた。左右の家々に商う品物も、この山陰に誰が使うのかと驚くほどだった。男も女も髪の結い方から着ているものの色目まで、京浪華の時節に応じた風流に後れを取らないとの心構えも思いやられて、この里は裕福であると思われた。山里は山里であり、風景が清く見えるところは貧しいのが常であるのに、どうしてこのような趣を持っているのだろうか。

山裾を平らな道を巡り行くと、山を登る道に出る。思っていたのとは違って、大方笠置山の南面から西の方に向かって張り出した尾根を伝って登る。頂上まで8町と言い、その間、右に曲がり、左によじ登っていくと、一の辻堂、二の辻堂と言って、中に仏があるでもなく、ただ、登り下り道の休み場所に設けたところである。一の辻堂まで僅かに3町ばかり登っていくと、川原の先に対岸に切山村の山里などが目の下に見えた。まだそれほど登っていないのに、このように滅多に見られない景色に遭遇するのは、山路が険しいだけでなく、登り道と思っていたところがずっと下に見えているではないか。

この辻堂というのは、道の左の山の端を少し平らに均して、そこに方丈(3米角)くらいに造った四阿(あずまや)だから、壁もなく、見渡すのに都合がよい。後は、深い谷になっていて、その向こうには見上げるような山がある。それは赤井の尾根の南面であろうか。これに覆われて小笠置の里は見えなかった。その山の東に一際聳えているのは、これから登ろうとする坂道の上である。この2つの山の間から東北に当たって、殊更に高く見えるのは元弘の皇居であったこの山の行き着く果てなのだろう、仰ぎ見るのも凄まじい山の姿だ。

山を下ってもとの船着きに帰ると、これより川上に上っていく、設えがあった。この渡瀬は歩いて渡ることも難しくはないが、少し川上は急に深く淀んでいる。船屋形の軒が出ている上、北と南の山が迫っていて空も見えない。ごつごつしている巌の間から見える景色はさながら唐絵のように見えた。蟹岩と言うのはその形によって名付けたのだが、長さは3尋(4.5m)もあるだろうと、若い者が言っていた。


   蟹岩のほとりを行けばおのれさえ 空目使いのせられぬるかな
と詠んだのは、南の高嶺に目を向けなければならないからだ。その名を獅子が淵と言うのは獅子の為の落とし穴に似ている所だという名であろう。岸には道がないので、猪や鹿などが遊ぶ所でもないようだ。

網船が出てきて、大岩の下に鯉が潜んでいるのを獲ろうと言って、竹竿など差し入れて突きながら獲物を求め、網を2度、3度打ったが、何も獲れなかった。編みが水底まで沈まないうちに、その間から鯉は潜り抜けたのだろう。艫の方でつぶやいているのを聞くと、この青い淵の底の心を知らないからだと言い、直ぐさまそこに行って一網入れて試してみようと言い終わらないうちに、弓杖を2丈(本?)ほどを2度3度かへり見せるように(意味不明)岩の上に行き、胸から上は濡らさずに網を持って2、3度投げ入れたが、獲物が何も獲れなかったので、面白くないと言って、やがて舟に戻ってきた。岩の下に近付いた時、素早くあがることができなかったのはどうしたことかと聞くと、水垢が滑らかで滑って取り付くことができなかったという。このような清らかな山川も淀んでいるところは、そのような心得も必要なのだ。

2、3町遡れば、南の山の北東の聳え立ったところに、陶山(陶山義高のこと、義高は、元弘の乱に幕府方として後醍醐天皇に敵対し、笠置山の戦いに出陣し功を挙げた)の夜討ち道の跡は、聞いていたより実に険しい有様だった。谷に沿って登ることもできるが、千手の滝の方に行く道は奥が深くないので、通常は水は無い。谷の東も山になっているが、険しくはない。

この山の岸伝いに1町ばかりは、急に川が浅くなっていて、船底がさわる音がしばしば聞こえた。北笠置の岩山も、ここから東は山がなく、かの峠を越える旅人も、この北岸の川沿い道に下ってくるところである。この瀬より川上はかなり小さい船でなければ通れないのではないかと言うと、ここに船を留めて見回してみると、川上の南に小山だが黒く茂った所があり、これを円山という。この手前に南から流れる小川があって、布目川と名付けられている。

円山の東に飛鳥路村と言う隠れ里があり、その様子は、東南には山高く、西は布目川を境とし、北はこの大川で隔てられているので、何処に道があるとも見えない。どうしても世に背いているようだと言うと、ここは言い伝えるところによれば、陶山の夜討ちの時、この里のもの達が道案内をして天皇を苦しめたので、その罰を蒙って村全体が良くない筋になったと言って、今も、近い村とは往来もせず、まして嫁取り婿取りなどは、どのように貧しくてもしないようになったと答えた。

ああ恐れ多いことだ。そのような次第なので。水戸殿(光圀)も少弐貞経(足利尊氏に与した武将)父子を論じて「もし、尊氏に忠を尽くす者これを移さば、王室において、即ちいずくんぞ中興諸将の組せざざらんや、その順逆の理(ことわり)を知らず」と申されたのだ。

このようにしている間にも、時々網を入れていたようだが、はかばかしくいかず、僅かに鮎2匹を獲っただけだった。しかし、網を打つ者どもの心づくしはこれで十分であった。今は、時も過ぎてきたので、先を急ごうと促して川を下り戻るとき、再び見ることがないだろうと陶山の道の辺りは、特に注意を払って、頂上は何処の辺りかと見上げたところ、胎内潜りの大石がはっきりと見えたので、これから更に北の方の尾根だと目をやると、木立が茂って岩の間の構えなどはっきりと見定めることができなかった。

笠置の舟付きまで下ってくると、開けた川原の砂が夕日に輝いて、暗闇の戸を開け放ったように見えた。ここから馬も小舟に乗せて、従者の舟も次々と木津を指して下っていった。南笠置の西に栗栖の天神と言って茂った森があり、菅神(かんじん・菅原道真)の後の話などを聞いたがどういうものだろう。森と里との間に小川があって、棚橋(棚のように掛けた仮橋)が掛かっていた。この川の水上は大和国添上郡広岡村と言って、国界も近い。北の岸の尾根上にある切山村の住まいも、今、目の前に見え渡り五軒家の渡瀬は、昼見た舟も見えず、渡し守もいないのは、夕方だから人の行き来もないからだ。

栗栖の森からこの少し川下までは、汀まで竹林に覆われて道があるようにも見えない。木屋の舟津は北の山が窪んで、和束郷への山越えはさも大変なことと思われる。南の岸は、笠置より川伝いの道があって、ここから南の谷の奥にある山田村を経て加茂郷の鬼並村に至るという。その山田村も加茂郷の出村と聞けば、笠置の境も大凡その辺りであろう。五軒家の1町ばかり下から、山も川辺も木立はなくなって、奥まったところもなく、草山に葛かずらが生え渡り、桔梗や女郎花などが群がっているのが見えるのは気が休らかになる。

川沿いの道がなくなっても2、3町の間は、同じ草山の景色が続き、所々に谷水の流れ出る所も見えた中で、鳴滝と名付けたのがあると聞くのは少し高いところから落ちるからだという。


   水もなく音も聞こえぬ鳴滝は雨降るときのなこそありけり

と、このように詠んだが、付き従う中に色々言い散らす者がいるかと思えば、また一人のもが言うには、そうではない。今は、広く名の知れた都の西の鳴滝すら昔は知られていなかった。今も、本当に名があるとは言えないと笑う者もいる。

この谷の入り口の西辺から、俄に山の姿が険しくなり、木立も茂って、殊に高い峰の方は松だけが黒ずんでみえた。川もこの山岸に近寄っているので、暗くなり始めた舟屋形の内は灯火が欲しい気がしたが、北の川原は、遠く白く夕映えが残って銭司村の家々が竹藪の合間からそこここに見えている。

川原に蹲れる者が少し動き、この舟に向かって「銭司村のもの罷り越しました」と名乗っていた。大変恭しく見えた。例の口の軽い童が「銭司の人こそいちじ来にけれど出せしをおとらぬすき物がとりあえず」と言う、「こりゃ」と言えば「招きし袖もなきものを」と後を継いだ。

川上遠くを顧みると、山陰の暗いところ10町ほどもあるところを、下る舟が速いのでほんの僅かの時間のように思え、山も高くなく、木立もまばらなところになった。2つ並ぶ小さな谷の間に挟まって、10間四方ばかりの竹藪がある。そこに数千とも言う数え切れないほどの轡虫が声の限りで鳴いていた。そこは雀のねぐらにもなっているという。そんなことを話している間に、舟は下り進み、虫の音も遠ざかって聞こえないようになった。

瓶の原に向かって川の流れが差し掛かったのは、二井川と落ち合うところだった。流岡に沿って、水は暫く淀んでいる。この岡を今、川の方から見れば、まるで切り立ったようになっていて、一なか森の石壁である。上の方に松がまばらに立っている景色は素晴らしい。川向こうの加茂郷の加茂明神は、延喜式に岡田鴨神社と書いてあり、山城風土記にも山代の国岡田の加茂と記してある。また天平の恭仁の古い都は、延喜式に岡田国神社と書かれているが、天皇が住まわれていたのだろう。岡田という名は、加茂と言うよりも確かのではないだろうか。

和銅の行幸、貞観の採銅は共に、記録は明らかなのに、今、岡田という名さえ知る人がないようになったのは、不思議なことである。恭仁の旧都(奈良時代、5年間都が置かれた山背国相楽郡の地)、甕原離宮(所在、相楽郡加茂町法花寺野里)など以前から集めておいた評価に値する物を、今、ここに取り出して、一つ一つ照らし合わせてみようと思うが、川波が白く見えるだけで暗くなり、近くの野山見えがたくなってしまい、今はどうしようもない。

舟は、また南に寄って下っていく。舟屋という所の前に、堤の上に町があって、灯火の光が家々に見えた。舟着と思われる所に、2人が跪いていて、名を名乗ったが、声が低くかったので、はっきり聞くことができなかった。恐らく村長なのだろう。暮れゆく空は寂しく、虫の音は益々競い合って、面白い旧都の眺めだった。誰だか顔も分からなくなった船の艫から


   心あらん人の見る目を恋がおに君をまつ虫鈴虫の声

と詠む声がした。加茂郷の果ての大野村の宮の下と言うところで、舟を留めて灯火を買い求めた。これで次々に続く舟も大変明るくなった。ここから木津まで一里ばかりと言うが、南の岸に法華寺野と言うところにきて、その北を巡るように行ったので、かなり長い距離になった。北の岸は神童寺の峠から下ってきたところだろう。そこの尾根の上に立っていた一本の松を星明かりに透かしてみると、誰もがそうだと頷いた。

法華寺野を巡り終えた頃、この南の奥の方に鹿背(かせ)山の不動と言うところがあると聞いたが、続日本記にある天平の都遷しに、この山の名がしばしば見えるし、万葉の歌にも「鹿背山の際に宮柱太敷祭」と詠み、古今集の旅の歌には


   都出て今日三日の原(みかのはら)泉川かわ風寒し衣かせ山

と戯れた歌もあって、名高いことは当然である。山深く引き籠もっているのは訳が分からないことである。

甕の原に差し向かいに、並び立つ山もなく、静かに立っている大野山の様子は、この先にあるはずだが、鹿背はこの大野山の総体をさすので、後の世の習いとして、その所々の小名(惣名に対する言葉)の数が増えてきたので、大野村と心を添えあわせ大野山とし、その隣村の観音寺村では観音寺山と呼び慣らし、鹿背の名は西南の片端の不動堂があるところだけにその名が残ったのだろう。


   今日もまた暑さは夏のままなれば衣かせとは誰か思わん

とは言うけれど、さすがに川風がそよそよと吹いてきたので、幕を下ろさせて舟の下るに任せた。

文治の昔、重衡中将(平清盛の五男、平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された)の最後の有様を盛衰記に記したのは渡瀬よりも川上だろうと思われ、川原の砂に仏像を指し据えて、合掌念仏を唱えたことは儚いことで、今、この舟底が、瀬に触る音がさらさら聞こえるに付けても、浅ましい程に世が乱れていたことを思いやるのだった。舟が着くのを待ちわびていた従者らが、木津の舟着の灯火が見えたと言って騒ぎ始めたので、幕を少し上げさせて見ると、その通り微かに灯火が見えた。


   舟寄する木津の川波はるばると標(しるべ)うれしきともしびの陰

と見ている間に舟は到着した。里があるところまではまだ遠いのに犬どもが鳴く声を聞けば戌の時(午後9時)であろう。

この一冊は、旅の途中忘れないように付けた手記である。適宜引用した書物、年号、地名など、記載できなかったものは後にその文字を埋め、更に侍臣忠友(穂井田忠友)に訂正させ、繕って筆写させ、校正させた上で終えた。

                                   天保2年8月 土佐守梶野良材(花押)