東京ドーム受注そして着工

昭和59年年初に、後楽園(現東京ドーム)故保坂社長の決断で、空気膜構造の採用が決まり、直ちに、日建設計と竹中工務店がそれぞれに最良とする基本計画を作成し、両社の協議を経て、当社案で一本化し、3月15日、保坂社長に説明をし、基本設計が承認された4月1日設計室が開設される。

しかし、大規模膜構造委員会では見通しのつかなかい懸案事項が残されていたのだった。それを一挙に4月18日解決したのは基本問題部会での東京大学故岸谷教授と建築センターの故大橋事務担当である。委員の異論を生むことなく、短い時間に、この重要基本課題に判断基準を示したのだった。この研究活動成果が、時を移さず東京ドームの設計に反映ことができたのは大きな進展だった。この決断が、持ち越されていたら、設計陣は手を下すことができなかっただろう。この成果は幸運と言うより、建設省と日本建築センターが、委員並びに事務局の選任に際して、優れた人選を行ったことにある。お二人とも今は既に亡くなられてしまった。

この時点になっても、後楽園は、建設計画の発表に慎重で、マスメディアへの発表はともかく、行政や研究委員会委員への情報漏洩にも気を使い、外部との接触を絶つ制約下で設計作業が進められていた。しかし、屋根付球状を建設することは、認可にも年月のかかることであり、この時期実現可否に関して気を揉まねばならなかった。後楽園がマスコミに公式発表したのは、昭和59年9月5日だった。一般紙は当然のこと、スポーツ紙、子供新聞に至るまで大きく取り上げた。空気膜構造を子供に分かり易く漫画を使って説明するなど、文字情報より映像、イラストが大きく活躍した。当社にも多くのマスメディアが声を掛けてきた。

11月5日、大規模調査研究委員会の最終調整会議が開かれ、1年に及ぶ作業が無事終了することが確実になる。評定に必要な審査項目、審査基準が定まり、大規模空気膜構造の建築申請は、建設省が受理できる条件が整った。それを待っていたかのように、11月19日、日建設計と竹中工務店で構成する設計室が、東京ドームの評定申請を提出するために、日本建築センターを訪れ、併せて、60年5月に着工するために、3月末までに評定を終了して戴きたいとお願いする。本来なら、評定完了期日を口にしてはならないことであるが、このような社会性のある大規模建築では、行政も理解を示してくれる。

年末には評定委員が決まり、年が明けて第1回評定委員会が開かれる。構造・防災・維持管理の3部会に分かれ、異例とも言えるスピードで評定部会が進めれていく。学識者もこの新しい構造には、関心を持ち興味さえ示してくれる。しかし、時としてその興味があらぬところへ関心が向けられ、時間が過ぎていくことに、申請者は戸惑うこともあった。

この時、アメリカのシルバードームの事故情報が報道される。既に東京ドームが建設されるとの情報が密かに流れていたので、ニュースバリューがあるとの確信からすざまじく無惨な写真が新聞紙上に大きく掲載された。ブリザードが荒れすさぶなか、融雪装置を作動させなかったこと、また室内圧を上昇させて屋根剛性を高めれば避けられたかも知れなかった。この事故の主原因は、シルバードームの管理システムが、このような事態を想定せず、余りにも単純なシステム構成であったこと、また管理者がこの事態に的確な措置を講ぜられなかったことによるものである。この事故に対しても審査委員学識者への説明が遺漏なく行われ、予定通り、3月に後楽園ドームの評定が終了し、更に異例とも言われる速さで、建設大臣の諮問機関である建築審議会の了承も得られて、4月12日、大臣印が押される。そして、5月16日華々しく起工式が挙行された。

大空間構造開発に携われ栄誉を受けることなく逝去された方々

建築センター澤田光英理事長

「大空間構造物は、現在の建築基準法では建設省(当時)は認可できないだろう。建築センターはこの中にあって、社会のニーズをくみ上げることができる。社会の要請を読み取り受けて立つことも必要だ。」澤田理事長がおられなかったら、大空間構造物は日の目を見なかった。最も大きな決断をされたのは、それまで建築センターが建築技術開発に支援の力を差し伸べたのは、公益性を持つ財団法人、社団法人であって、一企業からの申請に基づく研究委託はなかった。その中で、当社の研究開発の経緯を評価され、先行企業に対して相応の優先権を与えることも必要とお考えになったのだろうと推察する。建築センター内に(株)技術研究所を作りそこを受け皿とすると言う決断をされたのだ、1982年9月21日、建築センター後藤理事から、竹中社長名で「低ライズ膜構造研究委託書」を建築センター澤田理事長宛に提出するよう伝えられる。その後、設立に必要な委員会メンバー人選などが行われ、10月7日、第1回研究委員会が発足したのだった。東京ドームの完成を見てから暫くして73歳で亡くなられた。

坪井善勝東大名誉教授

坪井教授は私の恩師である。就職時竹中工務店に推薦するに当たり、建設業に入社したら構造設計は従事するな、先輩が不遇な環境に置かれているからだ、現場を志願せよと諭された。入社してから構造設計は担当しなかったが、入社後暫くして研究所に配転され、次いで生産本部に移されていた。企業環境は、恩師の見込みとは違った環境になっていた。私が、生産本部技術開発管理部長の時、会社から大空間構造開発を指示され、坪井教授にお願いに伺った時、君がやるならと、支援を受諾して下さった。デファクトスタンダードともなる「低ライズケーブル補強空気膜構造研究報告書」作成に当たって委員長をお引き受け頂き、その寸前に受注していた霊友会弥勒山体育館の委員会で教授委員に実情を話し、評定書を完成させて頂き、着工に漕ぎ着けることができた、膜構造建築第1号である。それ以前、坪井先生門下として、大空間構造または膜構造に従事されていた先生方は、それまで建設省とトラブル発生の度毎に、対策に追われ、認可に関しても苦しい経験を持たれ、膜構造を恒久建築物として実現するのは至難との見解をもたれていた.。大御所坪井先生が委員長に就任されたことで、多くの先生方にも積極的ご支援を頂けるようになった。大恩人である。坪井先生が逝去されたのは1990年12月83歳だった。

岸谷東大孝一教授(当時)

岸谷教授は、建築材料、防災に関する権威であり第1人者である。私が、東大建築学科で建築施工の非常勤講師をしていた時、岸谷教授の講座に籍を置いていた。そのことから大空間構造物の開発のお願いに行った時、快く受けて下さった。岸谷教授は、法律にも造詣が深く、基準法に抵触すると思われたことを法解釈、行政裁量の範囲で可能と判断され、その範囲で実現可能な道筋を立てられた。

大空間構造物基本問題部会を担当され、デファクトスタンダードの生みの親である。具体的には、建築基準法に言う技術開発は「第2章に規定する事項」であり、「第1章に規定する事項」は適応できない、つまり、第1章に言う建築構造の概念はドーム建築の対象とはならない。その他多くの面で膜構造は不適合だった。それを構造強度を堅固相当と解釈された。その他構造、防災多くの面で建設行政の裁量の範囲で実現可能と判断された。1996年逝去70歳

大橋雄二建築センター企画部研究課長

大橋課長は、建設省建築研究所に勤務されていたが、澤田理事長の要請で建築センターに赴任された。大橋課長は岸谷教授の下で基本問題研究会の全体のまとめ役を担われたのだった。つまり膜構造そもそも論を担当された。極めて頭脳明晰、余暇を割いて天文学を研究対象にされていた。大空間構造研究委員会が成果を収め、再び建築研究所に戻られ35歳を見ずに亡くなられた。唯一大橋課長に与えられた栄誉は、亡くなる寸前まで纏められていた著書原稿を建築センター出版部が「建築構造基準変遷史」として出版したことだった。大橋課長の貢献に対する見返りはささやかだった。

竹中技術研究所岩佐義輝主任研究員

建設業の技術研究所は、いずれの社でも技術高度化の波に乗り、対象領域が拡大し、これらを全てを対象とした時、専門細分化は必然の傾向だった。しかし、この傾向は幅広の視野を犠牲にせざるを得ず、協業化の機会を難しくしていった。我々部外者は、この現象を蛸壺研究室と言ったりしていた。この環境で、大空間構造物の開発を進めるには、専門分化した研究活動を如何にまとめ上げるかが重要なテーマとなる。岩佐主任研究員は、このまとめ役を任されることになった。その際、岩佐主任が取った手法はTQCであった。始めに構造全体の要求品質を縦軸に42項目、横軸に検討項目34項目を取り上げ、それら全1428項目から、重要項目35項目、検討項目79項目等とし、これから重点的に行うべき研究項目を絞り込んだ。

次いで、重要な構造安全性については、ツリー状に展開し、実験、解析の細目を拾い上げていった。このような整理が、研究員全体の共同・協力体制を造る上げたのだ。 更に、岩佐主任の作成資料は、明快精緻な検討項目と要求品質に具体化され、20頁に及ぶ企画書としてまとめ上げ、全研究員に指示していった。

TQC導入以前は、多くの研究員の研究活動を纏めるには、このように記述形式によらず、研究員の精力的活動・心情をコントロールすることが重要とされたが、岩佐主任は見事に品質展開表を通じて協業の成果を高めたのだった。岩佐主任は、東京ドームの完成後直ぐに40代で亡くなった。報われることのない最後だった。

柳沢設計部長(当時)

東京芸術大学美術学部建築科を卒業後、竹中工務店・設計部入社。東京本店設計部長を務めた。大空間膜構造の開発に当たっては、大規模実験棟の設計、次いで第1号となった霊友会弥勒山体育館の設計については、部門長として暖かく協力して頂いた。 1986年の新国立劇場国際建築設計競技で最優秀賞となったのを機に競技設計の規約により、竹中を辞めざるを得なくなり、独立した。その後会社の支援も細り、非常勤講師などで糊口を凌ぐなど不遇だった。 2017年8月14日、享年82歳。

デビッド・ガイガー博士

ガイガー博士は、シビルエンジニアの称号を持ちもたれ、米国法律により「その者の責任において構造物を設計でき、事故・故障の際は保険で救済される」ことになっていた。大空間構造に関わり、10数件の特許を持っていた。ミシガン州ポンティアックでシルバードームを、ミネアポリスではメトロドームを、インディアナポリスではフージャードームを、東京ジャイアンツの東京ドームでも空気膜構造の技術支援をした。1998年韓国ソウルのオリンピック競技場では、アリーナを設計した。1983年には土木学会賞を、また1986年米国建築家協会からは業績を表彰された。またフロリダ州セントピータースバーグでケーブルドームを設計した。世界で10数件の空気膜構造競技場の設計をし、韓国ソウルのロッテホテルで、心筋梗塞で亡くなった54歳だった。

米国法は一面では長所もあるが、巨大構造物では、十分条件を満たすことはできない。そして補完手段としての保険は、彼の責任範囲でないにも関わらず度重なる事故により保険協会から契約不適格者となり、構造設計ができなくなってしまった。

しかし、ガイガー博士の偉大な貢献は、低ライズ膜構造の形状設計に関し、膜構造を支えるケーブルネット固定端を超楕円(スーパーエリプス)によるコンクリート構造物で支承したことであった。一般に用いられる楕円式は長径、短径の2乘分の1だが、超楕円は2.5乘分の1で、ケーブルネットを支えるには最も合理的で最小力となる形状で架構リングを受けることができるのだ。東京ドームの形状設計は、デザイナーが描いた形ではなく、計算式によって与えれた形状であり、航空機から見下ろした時、一際優美な造形となる。できる。

ガイガー博士のドームは、維持管理を担当した技術者の力量不足により、次々と降雪で破壊し、今では無残な姿となっている。亡くなる前、幾たびか当社を訪れ、資金援助を懇請されたが、私の力不足、契約による支払は完了しているため、会社に更なる増額を申請することはできなかった。東京ドームの竣工の日、挨拶で祝辞を陳べたが、「私の造りたかったドームが今ここにある」だった。