恒久建築エアドーム第1号

建築センターの研究委員会が進行している最中、霊友会との打ち合わせが進み、弥勒山体育館の詳細設計に入っていた。しかし、この計画は、建築主を始め、当社設計担当者も、空気膜構造の実体を十分理解して進められたものではなかった。その上、霊友会の現地責任者は、7月の台風で既存の風船ドームが潰れた直後であり、仮設物として毎年認可更新を繰り返した面倒さ、更に雪が降っては潰れ、停電しては潰れ、台風が来る度に気を揉む厄介もので、再びエアードームが建てられると聞き、不安を抱える建物を再び建てないよう強く求めたのだった。建設地は、標高900mあり、設計条件は、最大平均風速45m、積雪荷重60cmを考慮する必要があり、時には敷石や瓦さえ飛ぶこともあったと言う。当社の支店担当者も、私にエアドーム計画を取り下げるよう強く迫ったのだった。

そんな環境下でも、公的評価が得られ、大臣印を受領して、予定より早く昭和58年9月地鎮祭が行われ、日本で初めての膜構造エアドームが着工される。私は、発注してくださった霊友会には、言い表せない感謝の念を禁じ得ない。小規模で建築費が高く、アメリカで事故が起きていることも承知の上で、当社の技術と品質を信用いただき、エアドームの明るい空間の素晴らしさを高く評価し、見守っていただいたことは、有り難いことだった。20数年を経た今も愛されつつ使われている。

工事は、険しい現場環境にありながら、順調に進展しているかに見えた。ところが、昭和59年7月に予定されていたインフレートが突然トラブルに見舞われる。膜材をケーブルに取り付け、シール用のネオプレーンガスケットをつけた後、作業所がインフレートテストしてみた。ところがある高さまで膨らみ反曲点に達すると、ケーブルが異常な屈強を生じ、弱い膜材が破れそうになったのだ。

テストをやめて、関係者による協議が続き、他社の実験建物情報を入手して検討したが、結論として、強行策しかない。異常屈曲によるケーブルキンクが起きないよう、屋根上に砂袋を用意し、それを移動させて屋根形状をコントロールすることにした。慎重になり過ぎかえって危険な状態を長く続けるより、思い切って一気にインフレートさせた方が被害が少ないとの結論になり、監視をしながら強行する、結果は良好だった。

この経験が、昭和62年の東京ドームインフレートに役立ったのだ。マスメディアも、一般市民も、関心を持って見守っていた東京ドームが、インフレートできない状態になったり、破損事故でも起こしたら、取り返しのつかないことになっていただろう。昭和58年10月、竣工式を迎える、初めてのエアードームに、建築主がどのような評価をされるか、関係者は言いようのない不安に駆られていた。式場に入られた霊友会会長から、「明るいですなあ。これはいい」この一言で、張りつめた肩の力が抜けた。

このドームは東京ドームの1/40の規模でしかないが、東京ドームの構造設計に必要な構造様式とディテールを殆どそのまま採用し、正に東京ドームの実験モデルだったのだ。この規模なら、もっと単純で軽快なケーブル架構方式があり、膜パネルジョイントも簡単な方式がある。しかし、この体育館は、正にミニ東京ドームとも言えるもので、規模を拡大すれば、そのまま大規模エアドームにも使える設計だった。特に書き留めておく成果として、エアドームの維持管理システムがあげられる、これはどのような気象条件下でも、膜屋根を安全にサポートする技術だからでである。厳しい気象条件に対しても、また遠隔地で緊急対応が難しい立地であっても、屋根形状は常に確実に維持し続けなければならず、そのためには、維持管理システムが完全に機能していなければならない。これはレダンダンシー(冗長)システムと言い、事故対応がダブル・トリプルに組み込まれていることだった。