膜構造元年の喜びと手痛い傷を残した膜構造
1970年、今から半世紀近くにもなるのだが、大阪万国博覧会がこの物語の端緒である。展示内容は、宇宙開発の成果をアメリカ、ソ連が競い合い観客を魅了した。またその構造物も一際注目を集めた。当初両国とも、建造物の高さを競った。設計計画段階で、ソ連がアメリカに勝利し、アメリは高さ競争を断念、フラットで明るい広大無柱空間構造物に転換する。
白羽の矢が立ったのは、若い技術者デイビッド・ガイガー博士で彼が発案したエアードムである。アメリカでも実績が無く、それを日本で実現させようとした。日本政府は、構想を聞き驚き、是非を巡って紛糾した。その解決は恒久建築ではなく、短期間使用する仮設構造物として認可すれば良いとした。気象条件も建築基準法を厳密に審査することなく、認可しようと決断したのだ。
それに対し、ガイガー博士の構造計画は、恒久構造物として耐えうる構造設計の提案だった。日米間の膜構造の違いは、構造形式の違いにあった。日本では、それまで祭、イベント、催事に短期間に限り使用に使われる風を受けると揺らぐような柔らかい構造形式で、西部劇に登場する幌馬車を型取ったハイライズ膜構造だった。これに対し、ガイガー案は、世界初めての膜構造で、ハイライズと言われた形式とは裏腹にフラットな形状をしていた。万博成功後、ハイライズ膜構造と対比し、「低ライズケーブル補強膜構造」と言われるようになった。ガイガー博士は大阪万博成功を契機として、自治体・大学などの安価な体育施設として爆発的に普及していった。
この違いはあったものの、大阪万博の成功の後、膜構造の設計に関与し、審査にも関与した大学教授らは、かつてない盛り上がりを見せた大阪万博の実績を「膜構造元年」と銘打ち盛り上がった。翌1971年に日本で開催予定の世界大空間構造会議(International Association for Shell and Spatial Structures)」を盛大に開催しようと意気込み、建築界に寄付を募った。しかし意に反し、工事を受注した大手建設業はゼロ回答、寄付に応えたのはテント業界だけの惨めな国際会議になった。
成功歓喜の後の奈落はまだ続く、ソ連は、大阪万博アメリ館が演出展示した月面着陸のジオラマ、月の石展示が大変な賑わいを見せたのに反し米国に後れを取った。ソ連は、名誉挽回を期し、1971年1月、後楽園球場フィールドにテントを張り、アメリカでもなしえなかったソ連の月周回の偉業を展示公開した。このテントを施工したのは太陽工業である。しかし、開催展示の最中予想を超える?降雪に襲われ、テントが破れ、展示品に損傷を生じさせた。ソ連にとって貴重な展示物、外交問題に発展する。太陽工業が全責任を持って処理すれば良かったが、安全性については、建設省の認可を得ており、当社が責めを負う事はないと責任逃れの発言をしたことが建設省を激怒させることになった。
その事件以降、建設省は、今後一切膜構造を認可しないと態度を硬化させ、この余波が膜構造に関わる学識者にも大きな精神的負担となった。後日1981年6月、私が、膜構造開発に際し学識者に参画を、建設省指導課に研究開発を願い出た時、学識者も賛意を示さず、指導課は全く否定的判断を下したのだ。この開発を拝命した生産本部技術開発管理部長だった私は、万博以後に行き渡った否定的環境を全く感知してなかった。今振り返ると、なぜこのような環境無知の提案をしたのか。
話しは飛ぶが、東京ドームが竣工した昭和63年(1988年)3月、関係者は勿論、世間は大いに沸き・感動し、メディアも大きな関心を寄せて報道した。しかし、出来上がって既に30余年の歳月が過ぎた今では、ごく当たり前の存在、つまり世界各地のごく一般的な屋根付き球場になってしまった。しかし、それは今だから言えることであって、昭和57年以前、屋根付きドームは日本では高嶺の花、と言うより月の石にも喩えられる、手にすることができない夢世界の構造物だったのだ。
日本の建築基準法、並びに行政の裁量によれば、構造物は必然的に堅固でなければならない。東京ドームに採用されたエアドーム構造は、屋根ががっちりした構造ではなく、内部の空気圧力によって屋根を支え、固いというより柔らかい構造なのだ。屋根を支える空気圧は機械の力を借りて作られる、こんな構造物は、恒久建築として認められなかった、機械が故障したりすれば、構造安定性を確保できない。また、ドームのような多人数を収用する特殊建築物は耐火構造でなければならない規則もある。しかし、エアドームは耐火性能試験に適合する性能を持っていない。更に言えば、当時巨大建築物と見られた超高層建築でも、収用人数は万を超えない、それがドーム球場となれば、数倍の収容人数となる。万が一の災害時、不特定多数の観客を安全に避難させることができるか。日本の建築行政を預かる当時の建設省(現国土交通省)は、規制法を軸として制定された建築基準法の規定から、認めがたい構造物だった。
一方アメリカでは、規制法ではなく目的法に近く、日本の基準法理念とは違い、早くからエアドームの開発が行われていた。その適用第1号が1970年(昭和45年)大阪万博のアメリカ館だった。万国博覧会は展示物もさることながら、パリエッフェル塔に見られるように一世を風靡し、世に問うデザインが競われる。アメリカは、若い技術者デイビッド・ガイガー博士が開発したエアドームをここで実現させようというのだ。アメリカにしてみれば、戦勝国として日本の建築行政に対する揺さぶりだったのかも知れない。日本政府は、この構想を聞き大変驚き、是非を巡って紛糾した。そして、恒久建築としてではないことから、短期間に提供する仮設構造物として認可することにした。アメリカ館は、前年月着陸に成功し、話題を呼んだ月の石を始め、探査船や宇宙服など大変な関心を呼んだが、それと共に、空気の力で支えられた広大な屋根を持つ無柱空間や出入り口で風圧によって館外に押し出される人々のどよめきなどを面白がり、大きな話題となった。
昭和45年大阪万博アメリカ館
建設前、建築行政に当惑があったものの、無事終了してみれば、仮設建築物としての短期間認可は、建築界で論争を呼ぶことなく、過ぎ去ったこととして次第に忘れ去られた。恒久建築物を営業対象とする建設業界は、アメリカ館が、以後、恒久構造物として実現することはありえないと見切りを付け、イベントなど短期のテント構造を扱うテント業界の営業領域として、競合することなく棲み分けできる対象と考えた。
この万博は、殆どがテント構造、つまり膜構造で作られていたから、膜構造万博とも言われた。膜構造に関わった学識者を始め、テント業者、膜材料業者は、これを「膜構造元年」と呼び、将来に大きな期待を込め、翌年、世界大空間構造会議(
International Association for Shell and Spatial Structures)
を開催した。しかし、協賛金を募ったところ、将来を担う営業対象ではないと見た大手建設業からの支援は得られず、予想に反し華やぎを欠いた寂しい会議となった。昭和60年代になって大空間構造時代を迎えた建設業界が、異常なまでの熱狂的争奪戦を迎えるようになった時、学識者は当時の寂しい会議を思い起こし、大手建設業の功利的な変わり身を咎めるのだった。
大手建設業者は、万博工事を受注しながらも、テント構造への関心を示さなかったから、勢い膜構造はテント業者だけの営業領域になっていった。それだけならまだしも、各地で開催されたイベントで屡々エアドームやテント構造が強風や積雪で事故を起こし、施設構造物を認可した建設省を悩ませていた。その最も大きな事故は、ソ連が企画した宇宙博である。予想外の積雪によってテントが破れ、展示品を棄損しソ連からはクレームを受け、工事を施工したテント業者からは認可したのは建設省と開き直られ、行政は苦しい状況に置かれた。それらの経緯から、建設業界は、膜(テント)構造物を、取り組むべき対象でないと見切ったし、建設省ではそれにも増して、不信感を持ち、以後、厳しい行政方針を堅持するようになり、恒久構造物としては将来とも認可し難いとの姿勢を貫くことになった。
一方アメリカでは、大阪万博の成功を足掛りとし、1975年(昭和50年)デトロイト近郊ポンティアックにシルバードームが完成した。これは収用人数8万人のエアドーム球場である。この実績によって、それまでに作られた鉄骨造、コンクリート造に変わり、安価に建設できる屋根付き球場と見なされ、自治体や大学で競うように造られていった。ダコタドーム、シラキュースドーム、オコーネルセンター等々である。それらが造られる度毎に、日本から調査団が派遣されたものの日本では造られることはないと、調査・視察だけで終わっていた。
1975年シルバードーム
私自身も当時この業界常識をごく当たり前のこととして受け入れていた。しかし、私が務めていた竹中工務店は、熾烈な技術開発競争下にあって、不可能とは知りながらも、エアドームを実現できれば、閉塞感漂う建築界の大きな突破口になるとの経営判断が生まれつつあった。そして、当時技術開発管理部長だった私に訪米調査するように指示が出たのだった。テント業者の領域であった膜構造、エアードームの調査には、当初、私自身乗り気ではなかった。実現不可能と知りつつ当て馬として指名されたとも思ったりした。
昭和56年1月、訪米してドーム球場、屋根付き球場を駆け足で網羅的に視察して廻った。鉄骨屋根構造のアストロドーム、スーパードーム等を見た後に、フロリダのシーワールド、オコーネルセンターを見る頃から、今まで持ち続けていた揶揄を込めたテント構造と言う既成概念を転換することになった。膜構造という新しい構造物、それは圧縮力を負担せずに、引っ張り力だけで構成されるテンション構造で、構造物の一つの確かな存在であることに気付いたのだった。そして、恩師坪井東大名誉教授の「学問に貴賤はない、仮設・恒久との建築差別は、行政上の区分である」を噛みしめていた。
フロリダ州オコーネルセンター及びその内観
視察旅行の最中、私は、急旋回して一気に技術導入に立ち向かうことになった。設計者であるガイガー博士との交渉である。この際にも僥倖が待ち受けていた。竹中のニューヨーク増谷駐在員が、橋渡しを買って出てくれた。彼は奇しくも、大阪万博アメリカ館建設時に大林組の設備担当者として勤務していて、万博終了後、退社して渡米し、竹中に入社していたのだ。更に、ガイガー博士は竹中トラスの特許無償供与を受けていたから、竹中には親近感を持っていた。
博士は好意を示しつつも共同設立者が賛意を示さなかったこと、更に契約完了企業と別に1社交渉中の企業があるとのことで、進展を見ずに帰国せざるを得なかった。帰国して日本の2社との交渉を始めた、1社は好意的で譲歩する姿勢を見せたが、契約完了した1社は強い姿勢で優先権を主張した。それでも道は開けるものだ、契約書に不備があり、契約無効を主張し断念して貰った、無念さを滲ませた表情が忘れられない。
この成果をガイガー博士に通報、子供達を含め一家に急遽来日を要請した。ガイガー博士も再訪したいとの希望を持ち、また家族も始めて訪れる日本に感激し、その後の、交渉も順調に進み、昭和56年7月、技術導入仮契約のサインを勝ち取ることができた。勿論排他的独占契約を目指してのサインであった。そこで一挙にプレス発表まで持ち込んだ。その時、社内では本契約前のプレス発表は前例がないと反対したが、国内の市場調査、得意先発掘には是非ともこの機会を逃したくないとし、発表を強行した。もし、この時建設業界がエアードームの実現性を嗅ぎ取っていたら、大きな騒ぎになっていたことだろう。しかし、行政の姿勢を知る業界は、プレスが興味本位で取り上げただけで、実現することはなく、はしゃいだ宣伝活動と黙視した。そのような環境下でありながら、プレス発表は、需要発掘に大きく貢献した。それは、市場が行政の堅い不認可方針を熟知していなかったからである。これも一つの僥倖だった。