高野家の家系と高野家文書

母方祖父の先祖は矢部家であるのに、高野家を冒頭に書き記すことに戸惑われるかも知れない。その理由は後述することにするので、暫く読みくだしていただきたい。高野家の系譜は、東京都公文書館蔵「高野家家譜下書」に記されている。初代高野新右衛門直雅は、大永7年(1527年)の生まれであったが、慶長11年(1606年)に南伝馬町の名主になり、同17年85歳で死去した。以降、高野家は代々世襲で伝馬役兼名主を勤めた。10代直孝によって作られた家譜下書きによれば、高野家当主は、代々新右衛門を襲名し、初期には武士との婚姻関係もあったようである。

ここで、名主高野家の歴代を書き記しておこう。
初代新右衛門 直雅 幼名新右衛門 号光蓮 大永7年〜慶長17年   
1代新右衛門 直久   新七郎   慶欣 永禄7年〜寛永8年
3代新右衛門  直友   新七    宗二 元和元年〜寛文2年
4代新右衛門 直重   善三郎   宗恩 寛永16年〜享保2年
5代新右衛門 直治    善三郎   泰恩 万治3年〜享保14年
6代新右衛門 直煕      徳之助   宗慶 元禄5年〜享保20年
7代新右衛門 直好   金之助         正徳4年〜寛延元年
8代新右衛門 直賢   釜三郎      享保9年〜明和元年
9代新右衛門 直昌   徳三郎   秋風 宝暦6年〜寛政10年
10代新右衛門 直孝   彦十郎      天明5年〜天保15年
11代新右衛門 直寛   正之助      文化14年〜明治3年4月
12代新右衛門 直清                       天保7年1月〜明治8年9月
13代          新七郎                      安政3年〜大正8年6月

高野家の支配地は、5番組に属し、南伝馬町2丁目、南鞘町、南塗師町、松川町1・2丁目、通3丁目代地である。南伝馬町2丁目は、現在の銀座通りメトロ京橋駅明治屋辺りであるという、南塗師町、南鞘町は南伝馬町の東に位置する。この支配地は、同じ伝馬役を務める馬込勘解由が支配する大伝馬町、宮辺又四郎が支配する小伝馬町(現在はメトロ日比谷線と総武線が交差する小伝馬町駅近辺)とは直線距離で2kmと隔たっている。更に小伝馬町の東には博労町があり、馬人足を調達するの至便でもある。一方南伝馬町は近くに畳町、大工町、鍛冶町、呉服町はあるが、伝馬に相応しい環境ではないように見える。それでも元禄13年の「両伝馬町馬数並びに脇馬書上」では、大伝馬町80疋、南伝馬町63疋とあるから、それなりの人足・馬南伝馬町及びその他の支配地に確保していたようである。 この「伝馬役」に関しては、この後「伝馬役」の稿を起こして別に詳述する。

高野家文書のなかで、代表的なものは「撰要永久禄」である。これは、10代の直孝の編集になるもので、3部に分かれている。触書の集成である「御触事」、伝馬業務に関する「御用留」、町支配に関する「公用留」であり、いずれも江戸の町を解明する貴重な資料である。

ほかに「諸事証文目録帳」「連判帳之入目録・証文入目録・赤坂連判帳之入目録」「日記言上之控」の表題を持つ史料が残されている。これらの史料によって、明暦以後の町名主が、職務上どのような書類を作成し、保存したかが判明する。このなかで「日記言上之控」には、町内で生じた事柄で、奉行所に報告すべきことが、年月日順に整理されている。

その中の一つに「女下請状」というものがある。女性の旅行は「入り鉄砲に出女」といわれるように、江戸時代は厳しく詮議され、特別の通行手形が必要であった。いわゆる女手形のことで、当時、女性達がどのような用で何処に旅行したかが分かる。万治3年から貞享4年までの28年間に15の例が見られる。この13例が店借人の旅行であり、家族旅行で、行く先は関西が多くなっている。実家への里帰り、あるいは参詣などのように思える。そのほか盗難事件、家出人、喧嘩口論の末の駆け落ち、酒盛りの後の騒ぎ、金銭の持ち逃げ、拾い物、倒れ者、義絶・勘当などが詳細に記録されている。

東京都公文書館が編集した「元禄の町」24頁に、文化10年高野家普請絵図面が掲載されている。文化9年、類焼後普請し直した時のものである。南伝馬町2丁目西側にあったもので、屋敷の間口は四間で奥行きは10間あり、一部が2階になっている。正面左側が玄関で幅は2間、土間の奥に8畳があり、その奥に6畳があり、この部分を役所として使っていたようである。正面向かって右側には大戸口があり、土間から炊事場・湯殿と続いている。その奥には居間と奥座敷があり、延べ床面積で50坪程度であり、そんなに広い屋敷ではなかった。

しかし、4代直重の時代、家内人数を記したものが、東京都出版「元禄の町」に残されている。「貞享4年正月人別改め帳の内、家内人数後世の見合いの為記し置く」から始まり、「新右衛門49歳、私宗旨の儀は代々より浄土宗にて、寺は(増上寺)花岳院旦那寺にて御座候」とあり、以下、惣領、妻、娘、次いで召仕となり、召仕それぞれも生国、請人、召仕経歴、宗旨、寺などが記されている。つまり、家族4人、召仕21人の大所帯だった。この人数から考えると、他に別棟があったようにも思えるし、書類などを収納する蔵は、間違いなくあった筈である。実際はもっと大きな住居であったのではないだろうか。

10代直孝は、文化年間に刊行された書物に高野家のことが記されているのを読み、それを伝え聞いたことがなかったため、自宅の文庫にある記録数千冊を引き出してみたという。これらの資料には目録がなく不便を感じ、「撰要永久禄」の編集を決意したという。隠居するまでに全205巻の作成しその後、直寛に引き継がれ、この一部が今日の史料として残されている。

町名主としての業務の傍ら、これらの自筆本を作成した努力は並大抵ではない。直孝は、幼年より、書は大橋玄龍・龍雲に、読書は林家の伊東平八郎・中島左仲、和歌は山本清渓、琴は山登検校松理一、盆砂は望月竹友に学び、茶の免許を受け、隠居してからは、和歌・狂歌・道歌などを楽しみ、江戸近郊の名所古跡を遊覧し暇を見ては古書に親しんだという。(注、この段落、望月竹友、伊東平八郎は、吉原健一郎著「江戸の町役人」による。東京都公文書館発行の「元禄の町」では、望間竹友、伊東半八郎と記載されている。)

このほか、神田雉子町の名主齋藤幸成は、3代にわたり、「江戸名所絵図」を編集したり、「東都歳時記」「声曲類纂」「武江年表」「百戯述略」などを著述し、なお多数の著作、日記を残している。このように、町名主のなかには、極めて高い教養を身につけたものも居たが、なかには、世襲のため、町の業務は才覚あるものに任せ、悪巧みをしたり、町支配を熱心に行わないものもあったという。 この様なことから、「名主肝煎(きもいり)」制度を作り、組合内の統制を行い、町方取り締まりにかかわる申し合わせをするように命じられた。

  この要点は、
1、公用を重んじ、御用向きに精を出すこと
2、身持ちを慎み、仲間相互に仲良くし、抜け駆けをせず相談すること
3、仲間内の心得違いのものがいれば、よく談合し、皆と相談すること
4、同役のものへ権威がましいことのないようにすること
5、何事によらず、組合内の同役名主からお礼などを受け取らぬこと

などであり、番組内の中核になる肝煎を2、3名おいて名主達を統制しようとしたものである。